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わせだマンのよりみち日記

2022.05.25

南の島に息づく「もうひとつの年表」 ~石垣市立八重山博物館訪問記

#現地訪問

人生初の石垣島!国内有数のリゾートアイランドで過ごす、見渡す限り晴天の一日! 東京暮らしの身にとっては楽園のような島まで足を延ばしたのに、時間が押して直ちに日常へトンボ返り…というのも悲しいので、ここは往路で少しだけ寄り道を。

空港からタクシーに乗り、運転手さんにお願いして立ち寄った紺碧の海。わずか3分間ほどですが、心が解放されるしばしのバカンス。「誰もいないビーチ」という素晴らしいシチュエーションで動画を撮影することができましたので、皆様にお裾分けです。

さて、本日お邪魔したのは、石垣市立八重山博物館。何も考えない時間を満喫したくなるビーチとは正反対に、こちらが知的な刺激でいっぱいのミュージアム。今回も、駆け足で見学させていただきました。

「八重山諸島は、『縄文時代』や『弥生時代』とはまったく別の歴史を歩んできたんですよ」

まずは、ご案内くださった学芸員の大濵さんによる、年表の解説。そうそう、確か港川人でしたか…と、沖縄本島の博物館で得た記憶を手繰っていると、こう続けます。

「港川人の時代よりもずっと前の2万4千年ほど前、ここ石垣では白保人と呼ばれる人々が暮らしていたようなんです。ほら、こんな感じで」

年表を見ると、八重山諸島の部分は、旧石器時代の後に縄文時代や弥生時代、古墳時代といった見慣れた時代区分がなされていません。旧石器の後は空白があり、「下田原期」という時代があって、再び空白を経て「無土器期」時代へと続いています。

白保人は、人骨の状態で測定することができる中では、日本最古の人類なのだとか。年表が空白になっているのは、遺跡が発見されていないためのようです。本土で言う縄文時代にあたる時代に沖縄本島では縄文人の渡来が確認されていますが、八重山諸島には記載がありません。つまり、このころはまだ本土との交流はなく、文字通り「独自の歴史」を紡いでいたことになるわけです。

本土の縄文時代にあたる下田原期の時代には、土器が出土しています。どちらかと言えば台湾方面の文化に近いようなのですが、ここでもまた空白の時期が。その後に訪れる無土器期時代には、土器の代わりに焼石調理で煮炊きし、石斧の代わりに貝斧を使っていたと考えられているそうです。

そして再び空白の時代を経て、「新里村期」ではまた土器が使われ始めます。徳之島の焼物や九州商人の行き来の痕跡が見られるそうですので、この時代が来る頃は交流が活発になっていたのでしょう。それにしても、空白期間というのは何ともミステリアスで、実に興味深いものがありますよね。ぜひとも「歴史の謎」の解明が待たれるところです。

別の年表には「西暦714年(和銅7年)に、奄美、信覚(石垣)、球美(久米)の南島人が大和朝廷に入朝する」というくだりがあります。遣隋使や遣唐使が朝鮮半島を通らず、南方ルートから八重山諸島を通ったこともあったというこの頃から、本土の年表とクロスオーバーする部分が増え始めます。江戸時代に入ると、1609年に薩摩島津氏が侵攻。翌々年に検地が始まり、1614年には石垣島では初となる寺が建立されました。有名な焼き物「八重山焼」が始まるのは、1695年のことです。

明治時代の前半には、八重山蔵元で喜友名安信という蔵元絵師が活躍します。蔵元と聞くと酒蔵の経営者を思い浮かべますが、こちらでは政所、即ちお役所を指すだとか。つまり、蔵元絵師とは記録や報告の絵図を描く役職ということになるわけですね。琉球伝統の記録係といったところですが、そこは絵師、画力の高さに圧倒されます。

次の写真の左が「作品」で、右が「旗頭本」。旗頭とは村の守り神のような存在で、旗頭本はそのデザイン帳にあたるそうです。ここから村のシンボルを作成するわけですね。

下が実際の旗頭です。色や形は村々でまったく異なるそうで、実際の展示を見てもどちらがどちらか間違えようがないほど個性的です。

旗頭本には、着物の記録も含まれています。貢納布、つまり税として納められた生地や着物のデザインを紙に描き起こしていたのです。その仕事は緻密かつ精巧な品質が求められることになりますが、ここから地元が誇る織物「八重山上布(やえやまじょうふ)」も生まれたのだとか。

似た性質のものとして、以前に訪れた宮古島のミュージアムで藍染が素晴らしい「宮古上布」を見たことがあるのですが、八重山上布はすっきりと爽やかな白が基調。興味が湧いて後で調べたところ、八重山上布のシャツなども販売されていました。なかなかの高級品なのですが、ぜひ一枚「手に入れたい」と思わせてくれる上質感。

大濵さんの丁寧で分かりやすい解説に知的好奇心を刺激されっ放しのこの日、最も驚いたのは埋葬に関する展示でした。次の写真は、棺を運ぶ際に使用する籠。「ガンダラゴー」というそうです。

この地方では、かつては風葬が主流でした。昭和初期まで行われていたそうで、遺体を収めた棺を洞窟や崖下に置き、自然に風化させるという方法です。死後3年・5年・7年にそれぞれ「洗骨」を行い、写真の骨壺に。装飾が施されているものは比較的新しいものですが、それでも私が生まれ育った地域の風習とはまったく様相が異なります。

今年は、沖縄の本土復帰50周年という記念すべき年。現在は同じ日本であることに疑いの余地はありませんが、この日の展示見学を振り返ると、縄文の太古からまだ百年にも満たない近年までは寄り添いつつも別の道を歩んできたことが実感できます。

かつては明確に異なる文化を育み、いまは私たちと一緒に同じ年表で歴史を歩む石垣・八重山。それを思うと、ミュージアムに到着する前に訪れたあの素晴らしい海の風景も、さらに特別なものに感じるのでした。


 

取材協力  石垣市立八重山博物館 副主幹兼学芸係長 大濵 永寛さん

https://www.city.ishigaki.okinawa.jp/kurashi_gyosei/kanko_bunka_sport/hakubutsukan/index.html