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わせだマンのよりみち日記

2021.03.10

加賀百万石と参勤交代 ~石川県立歴史博物館

#現地訪問

「加賀藩の参勤交代と北陸新幹線って、ほぼ同じルートなんですってね」

どこかで聞きかじった知識です。失礼かなと、思いつつも話題を振ってみたところ、学芸員はけげんな顔をするどころか、パッと笑顔を見せてくれました。「よくご存じですね!」

でも、もっと面白い話がたくさんあるんですよ……と、肩を並べて歩きながらの解説。穏やかで、分かりやすい語り口に「さすが学芸員だなあ」と感心する私。ところが、箱の蓋が開くように飛び出す貴重なお話を聞いているうちに、「へえ〜!」「ほお〜!」と相づちを打つのに忙しくなってしまいました。

両岸で緊張感が大違い!? 「戸田の渡し」の秘密

「新幹線でお帰りになる時、荒川を越えて東京に入った直後くらいに、車窓に一瞬『舟渡』という字が見えますよね。この地名、実は大きな『境目』になっていたんですよ」

舟渡の文字とは、JR埼京線の「浮間舟渡」駅の看板のこと。戸田の渡しからこの名が付いたようですが、実は江戸時代、幕府は荒川に橋をかけることを禁じていたとか。従って、参勤交代の大行列でも、必ず渡しを利用したそうです。

渡り切ると、関八州(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)という幕府の直轄地を出ることになります。ということは、参勤交代の面々は、正装から旅の衣装に着替えていることもあり、「故郷に帰る時は、荒川を越えた瞬間、少しリラックスできたはずですよ」と学芸員。なるほど、百万石の大藩とは言え、江戸でのお勤めは緊張を強いられたことでしょう。

参勤交代は想像を絶する規模

さて、この参勤交代は、幕府の命で450名の藩士を連れていくのが常だったとか。50代の私は「昔の学校の1学年くらいかな」「修学旅行くらいかな」と規模を思い浮かべますが、そうではありませんでした。

有力な藩士ともなれば、お供がつきます。槍を持つ者、雨具を持つ者、籠を持つ者、馬の轡とり……と、多ければ10人前後にも達したのだとか。常設展示のジオラマで確認したところ、写真の台座の板1枚分が藩士とお供の1グループにあたるとのこと。服装や装備の違いは、「個性」や「多様性」と言うよりも、役割の違いなのですね。

幕府の指示を守ると、結局2千人規模の大行列に。加賀藩の場合は、12泊13日の道程をかけたため、現在の貨幣価値で何と1億2千万円もの費用がかかっていた計算になるのだとか。

対して、出張で訪れた私は、北陸新幹線で2時間半。2千人が新幹線に乗ったとすると片道3千万円ほどになりますから、往復では江戸時代の半額ほどでしょうか。スケールが大きすぎて、ちょっとピンと来ませんね。

参勤交代は、幕府の窮余の一策だった?

こんな話を楽しく、分かりやすく解説してもらえるのですから、出張疲れなど吹っ飛びます。「なるほど、諸藩の財政力が弱まって当然ですね。相対的に幕府のチカラが強まるワケだ」と、学校の授業を思い出してテンションが上がる私。ところが。

「そう習いましたよね。でも、実際は違うんですよ」「はい?」

中央政府として機能するには、幕府が抱える「国家公務員」だけでは人手不足。参勤交代でやってきた「地方公務員」たる諸藩の藩士たちに重要な仕事を振って、どうにか実務を回していたのが実情だったのだとか。

たとえば、「家康公の200回忌」という一大プロジェクトの場合。幕府の威信がかかるだけに、日光までの道中警備は加賀&薩摩という夢のタッグ級の厳戒体制が敷かれました。ちなみに、加賀藩は、ペリーが浦賀に来た時には増上寺に詰めており、現在のお台場付近の警備を担当したそうです。

つまり、地方への意地悪が主目的だったわけではなく、「上から目線」の下では江戸での実務をお願いしていたわけですね。

専売制の元は「借金と販売権のセット」?

面白すぎる学芸員の解説は続きます。「まあ、とは言っても、諸藩の財政事情が徐々に悪化していったのは事実ですけどね」

現在の自治体よろしく、江戸時代の各藩も財政に苦しんでいました。莫大な借金を抱える組織が考えることと言えば、組織のスリム化。藩の特産品を「売る権利」を販売し、事業を丸ごと商人に。彼らが潤う仕組みを認める代わりに、もはや百年ローンといった惨状の藩の借金も肩代わりさせます。

薩摩は砂糖、長州は蝋燭。こうしたビッグネームも手を染めていたわけですが、このシステムは、後の専売制へとつながったそうです。だとすれば、現在も盛んに行われている「民間委託」は、江戸の世の知恵だったわけですね。

やはり歴史は、つながっているもの

参勤交代のルートと北陸新幹線のルートに、公共事業の民間委託。学芸員の話に耳を傾けていると、現在の社会の仕組みが先人の知恵の上に成り立っていることを実感できます。

ちなみに、こちらの博物館の建物は、1909年(明治42年)から1914年(大正3年)に建てられたもの。もとは何と兵器庫で、戦後は金沢美術工芸大学として使用された時期を経て、現在の博物館になったのだそうです。

学芸員の解説があると、ミュージアムの楽しさは倍増します。チャンスがある時は、ぜひ積極的に話をお聞きになることをおすすめします。


取材協力:石川県立歴史博物館 学芸員 濱岡伸也様

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