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わせだマンのよりみち日記

2021.03.24

一枚の写真に滲む「心のうつろい」 ~本山町立大原富枝文学館

#現地訪問

「私はこの写真が本当に大好きなんですよ」とニコニコ顔で学芸員が示してくださったのは、展示室の入り口に大きく掲げられた写真。大正元年生まれの小説家・大原富枝の若かりし頃の一枚で、下半分にサインらしきものが見えます。

画像提供:本山町立大原富枝文学館

「Dear Tomie Your’s Kasho」

2行目の「Your’s Kasho」がかすれていますが、これは彼女自身が消そうとした跡なのだとか。Kashoとは、結婚を前提に交際していた当時の恋人、濱田可昌のこと。地元の名家の次男として生まれましたが、早くに父を亡くしたため、学費も自分で準備する苦労人だったそうです。

用件が済み、そのまま常設展示をご案内いただきながら、一枚の写真の物語に耳を傾けます。

この写真、もとは富枝さんが可昌さんとの手紙のやり取りの中で送ったもの。受け取った彼はそれを大きく引き伸ばし、自分のサインを入れて彼女にプレゼントしたわけですね。20歳ごろとされる富枝さん、とても安らかなお顔ですが、実は結核を患っていました。この数年前に喀血し、当時はまさに療養中。このころ本格的に創作を始め、文学仲間のひとりだった可昌さんとのお付き合いが始まりました。

ふたりは8年間ほど交際を続けていましたが、昭和15年の暮れに突如、終わりを告げます。何の前ぶれもなく、突然に可昌さんが富枝さんに絶縁状を送ったのです。変節の裏には、3人の子どもたちを女手ひとつで育て上げた可昌さんの母親の存在がありました。結核患者に対する当時の人々の認識を考えれば容易に想像できますが、富枝さんの病を知った可昌さんの母は、結婚に大反対。悲嘆にくれた富枝さんは文学で身を立てることを決意し、決別の意味を込めて写真のサインを消そうとしたわけです。

可昌さんは、昭和17年1月、戦地で悲劇的な死を遂げています。戦死者の広報に写真が掲載されたのですが、そこには異なる姓が記されていました。あの別れの直後、資産家の娘と結婚し、養子となっていたのです。これを知った富枝さんは打ちのめされ、以降、長きにわたって消すに消せない心の傷を抱えることになりました。

それから30年ほど経ち、富枝さんは自伝的小説を執筆する過程で、かつての恋人の人生を辿ります。古い想い出と湧き出る涙の中で作業を続けるうちに、齢九十になんなんとす彼の母が存命であることを知り、葛藤を振り切って入院先を見舞いました。富枝さんは、病床で痩せ衰えたその手を握ります。すると、心の中に去来する怒りやしがらみが一気に溶けて、かつての仕打ちを赦す気持ちになったのだそうです。

作家として大きな成功を収めた大原富枝は、晩年、生まれ育った地元に膨大な資料を寄贈しています。美しい想い出の数々に彩られた地である一方、病による差別では心に深い傷を負ったはず。ところが、濱田可昌と彼の母への複雑な気持ちを清算したように、彼女はすべてを赦したのです。

そして、この赦しの過程こそが、大原文学の根底に流れるもの。冒頭の学芸員は、それを知っているからこそ、その象徴である一枚の写真に特別な想いを寄せるのです。

いやいや、軽く展示室を回るつもりが、すっかり魅了されてしまいました。これだから学芸員と話すのは楽しいのです…と締め括るには、まだ早い。最後にひとつ、学芸員に教わったとっておきのエピソードをご紹介しましょう。

長い長い時間が経っていたとは言え、あれだけの仕打ちを受けた富枝さんです。彼女は、病室で赦しの心へと行き着いたわけですが、そもそもなぜ可昌さんの母を見舞う気になったのでしょうか。それは、もう一枚、別の写真がきっかけとなったのだそうです。

その写真は、常設展示室に飾られていました。そこには、つばの広い麦藁帽子を被った少年時代の可昌さんが写っています。富枝さんは、彼が身を包んでいる絣の着物に胸を打たれました。ビシッと仕立ての決まった着物は、我が子に注ぐ期待と愛情、慈しみの心。その尊さが、堆く積もりに積もった複雑な感情と思考を根元から揺さぶったのです。

作家の人生、学芸員の思い、展示資料の向こう側。館を出る際、振り返ってレトロな建物を仰ぐと、入館直前に見惚れた時よりもさらに深みが増して見えました。


取材協力:本山町立大原富枝文学館 大石美香様

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