代表ブログ

わせだマンのよりみち日記

2021.11.10

「小成に安ずるは退歩である」 ~高碕記念館訪問記

#現地訪問

兵庫県宝塚市、雲雀丘花屋敷。う〜ん、地名からして高級住宅街を連想させますよね。駅を出て北へと向かう坂道を息を切らしながらも登り切り、ちょっとした達成感を胸に振り返ると、大阪平野が見渡せる最高のロケーション。今回ご紹介する高碕記念館は、そんな場所にあります。

立派な応接室といった佇まいの部屋に案内されて恐縮しつつ、まずは館の紹介映像を鑑賞。記事のタイトル『小成に安ずるは退歩である』は映像に登場したもので、この家の主であった高碕達之助の言葉です。政治家として、実業家として、あるいはマヨネーズの『キユーピー』の命名者としても有名な高碕の人柄を象徴するこの言葉は、この後の展示見学で意味を噛みしめ、忘れようにも忘れられないフレーズとなりました。

まずはこちらの写真をご覧ください。敢えて部屋の中央からずらして撮ったのは、左手のドアまで収めたかったからです。国登録有形文化財であるこの建物は、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの作品としても有名なのですが、実は日本人の身長に合わせてドアの取っ手の位置が調整されているのだそうです。ヴォーリズの設計と言えば「居心地のよい建築」「やさしい建築」と聞き及びますが、こんな部分にまでこまやかな配慮があるのですね。威厳に満ちていながら、人に寄り添う温かさを湛える空間。もし住むことができたら、それはそれは快適そのものだろうなあ…というこの感覚、写真で伝わるとよいのですが。

今回はガイド付きの展示見学を体験させていただいたのですが、それは高碕達之助の生涯をめぐる小旅行のようなひとときとなりました。

のちに通産大臣や初代経済企画庁長官などを歴任する高碕達之助は、明治18年、大阪府高槻市に生まれました。海洋国家である日本は水産資源に発展の道を見出すべきという志を早くから抱き、大正6年に東洋製罐株式会社を興した若き実業家は、昭和13年には東洋罐詰専修学校を設立するなど順風満帆の日々を過ごします。しかし、戦争が始まると缶詰に必要な鉄の入手が難しくなったこともあり、満州にわたって満州重工業の総裁に就任。そのまま満州で終戦を迎えることになります。

政府の要人も軍人も捕らえられた中で満州の日本人会会長となった高碕は、邦人の引き揚げに尽力します。企業活動を通じて構築した現地の人脈は、きっと政府関係者以上だったのでしょう。とは言え、取り残される形となった一般人は約200万人とも言われ、人々は苛烈な環境に置かれていましたので、引き揚げ以前に保護からして困難を極めたはず。生半可な気持ちや能力では務まるはずもなく、滅私の心が偲ばれます。

そんな高碕のネットワークは、政界へと乗り出し辣腕を振るった後年、再び存分に活かされることになります。日本と中国が国交を樹立する以前の1962年、経済交流再開のための協定の締結に向けて経済使節団団長として訪中し、通称「LT貿易」の立役者となるのです。LTとは調印者のふたり、即ち中国側の代表である廖承志と高碕の頭文字から名付けられたもの。正式な国交がない中で民間レベルの経済交流を実現した稀有な例として広く知られているこの協定が、その後の日中友好の礎となったことは間違いないところでしょう。

さて、話は前後しますが、中国から帰国してしばらくした1952年、時の総理・吉田茂に請われた高碕は、国の特殊会社として設立された電源開発株式会社の初代総裁に就任します。いくつものダム建設を成功させるなど、その後の高度経済成長の原動力のひとりとして名を馳せますが、ここでも合理性一辺倒ではない人間性が輝きます。

たとえば、岐阜県大野郡白川村にある御母衣ダムの建設にあたっては、水に沈む運命にあった荘川村で400年の樹齢を重ねていた桜を救うよう奔走したとのこと。その結果、ダムの完成後はこの桜の開花時期に毎年開かれていた元住民たちの集会に、高碕自身も招かれることになったそうです。反対派の住民にしてみれば、本来は丁々発止と渡り合う「敵」だったわけですから、いかに高碕が真摯に向き合っていたかがよくわかります。

衆議院議員となったのは、1955年のこと。ガイドスタッフは親しみを込めて「高碕さんはねえ」と目を細めながら、人柄が滲むエピソードを次々と聞かせてくださいました。たとえば、1962年には日ソ漁業交渉の政府代表として訪ソしていますが、当時に訪れた根室近郊では漁師たちが次々と拿捕される中で家族が生活に窮している事情を知った高碕は、「あと10年生きなければならない仕事ができた」と述べて交渉に臨んだそうです。難航を極めながらも、この問題は翌年の6月に問題に解決し、漁師たちはもとの昆布漁に戻ることができたそうです。

1962年と言えば、前述のLT貿易の訪中の年。御年77歳、ソ連へ、中国へ…まるで単騎駆けの戦国武将さながらの馬力には舌を巻くばかりですが、ソ連との漁業交渉が妥結を見たわずか8か月後の1964年2月に逝去されたと知り、冒頭の言葉の重みを噛みしめることになりました。

同年10月には納沙布岬に高碕の顕彰碑が建立され、除幕式には多くの関係者が参列。また、長く親交を温めていた周恩来は「このような人物は二度と現れまい」とまで評し、高碕の死を悼んだといいます。

館内には、こうした功績の数々を実感できる資料が多数。たとえば、写真のパネルの上段、左から2番目にご注目ください。これはケネディ大統領の就任式に出席するために訪米した際に撮影されたもので、随伴者として同行させた若手代議士の顔が見えます。この人物こそ、誰あろう、のちに総理大臣にまで昇りつめることとなる中曽根康弘。一枚一枚、じっくり見れば一日過ごせてしまいそうな充実度です。

小成に安ずるは退歩である。それは、ひとつの成功に安住することをよしとしなかった高碕を象徴する言葉と言ってよいと思います。その生涯は、彼をして「あと10年生きなければ」と言わしむレベルの難題との格闘の連続でした。満州から引き揚げる邦人たちのために、ダムに沈む村の住民たちのために、納沙布岬の漁民たちのために、高碕達之助は死の直前まで力を尽くしたのです。

発展する大阪を見渡す高碕記念館と、交流があった阪急電鉄の創業者・小林一三の邸宅である小林一三記念館は、実は車で10分ほどの距離なんですよね。零細ながらもひとりの経営者である以上、このおふたりから学ぶべきことは、ほとんど無限にあります。いつか午前と午後の半日ずつ、仕事抜きでうかがわなくては…と再訪を誓う訪問となりました。

 


高碕記念館

(公益財団法人東洋食品研究所)

https://www.shokuken.or.jp/culturalasset/about.html